指定された部屋

今から10年程前のはなしです。 当時、入社二年目の会社員だった私は、上司二人に連れられて栃木にある某洋酒メーカーの工場へ出張する事になりました。 勤めていた会社が関西にあったもので日帰りは難しく、宿泊施設が必要でした。 早速、事務員にホテルの手配をお願いしたところ、部長の同行ということもあって、そこそこなホテルを宛って貰えることになりました。 栃木に着いて打ち合わせまで少し時間があったので、先にホテルにチェックインする事になりました。  「三名様でございますね。ご予約承ってございます。」 フロントの小太りな中年男性が対応してくれました。 言葉こそ丁寧ですが、どこかにやけた表情のある男性だったのを覚えてます。  「こちらに住所と名前を記入して戴けますでしょうか…。それから、只今当ホテルの新館を改装いたしておりまして、お客様にお泊まり戴くのは旧館になります。」 先程から気になっていたその男のにやけた表情は目でした。明らかに目が笑ってました。 少なくとも私にはそう映ったのですが、上司二人はそれほど気にしていない様子でした。  「では、お部屋の鍵をお渡し致します…。」 先に上司二人に鍵を渡し、その後私に…、  「貴方はこちらです。」 と、何故か僕だけ部屋を指定してきました。  『…見るからに僕が新入社員なんで、部屋に差を付けているのだろう。』 その場はその程度でした。 結構広い敷地に大きなロビー。フロントから左に進み右へ曲がれば旧館に続く廊下があり、その奥に廻り階段がありました。  私 「客が全然入って無いですね。」  上司「平日だからだろ。特に遊ぶ所も無い様だし…。」 旧館までの廊下と階段を結構歩いたのですが、その間別の宿泊者とすれ違うことはありませんでした。 階段を上がると左側が便所で、右側に客室が続いていました。  私 「この階は僕らだけですかね。」  上司「そうみたいだね。」  部長「じゃあ、5分後にロビーに集合な。」  私 「わかりました。」 階段から一番手前が私の部屋でした。 鍵を開け部屋に入った瞬間、一種の不快感に見舞われました。  臭いのです。 それは、RC造独特のコンクリートの臭いというか、黴びた臭いというか、埃っぽいというか…、明らかに久しく使われず換気不足な時に出る臭いがしました。  『最悪だな…。』 しかも風呂と便所がありません。  『そこそこなホテルねぇ…。』 事務員から見せられたパンフレットからはイメージ出来そうもない客室にがっかりしました。 仕事での宿泊、しかも一番若輩な者の不快感など主張出来る訳も無く、まして部屋を代えて欲しいなど言える筈もありませんでした。 私はそのまま荷物を置いて直ぐにロビーに向かいました。 打ち合わせに向かう途中のタクシーの中で、  私 「部屋、臭く無いですか?」  上司「そうでもないけど、君んところは臭いのか?」  私 「なんか臭うんですけど…。」  上司「仕事で一泊だけだし、我慢しろよな。」 予想通りの答えでした。 仕事が終わって、夕食を部長がご馳走してくれる事になりました。その後、一軒、二軒と梯子となり、部屋に戻った時はほろ酔い気分で臭いの事などすっかり忘れていました。 風呂に入るのも面倒になり、私はそのまま寝ることにしました。 何分経ったのでしょうか。まだまだアルコールが残っていたので、それ程経ってなかった様に思います。 突然目が覚めました。しかし、身体が全く動きません。 みるみる内に酔いが覚めていったのを今でも覚えてます。 それまで金縛りには何度か遭った事があるのですが、何時もとは比べようも無いくらいの強烈なものでした。 金縛りを解くべく懸命に指先を動かし、どうにか解けると、直ぐにまたそれ以上の金縛りに見舞われるのです。解けると直ぐ…、解けると直ぐ…、意識は徐々にハッキリしてくるのですが、金縛りは強くなる一方です。とうとう指先さえ動かなくなりました。 瞼以外の身体は全く動かず、意識だけがしっかりしている状態になりました。 その時です。見たこともない女性のイメージが脳裏に浮かびました。 パーマを当てただけの無精なヘアースタイルのオバさんで、二重顎、瞼を閉じて生気が全く感じられないオバさんの顔だけが、二度、三度私の脳裏に浮かぶのです。  『…。』 生気の無いオバさんの顔が、ずっと同じパターンで私の脳裏に浮かぶ…、…いえ、入ってくるのです。少し離れた処から迫ってくる様に。 何分程続いたのでしょうか。 目を開けると天井が見えました。そして廊下を歩くスリッパの音が聞こえました。  『誰かが起きてトイレにでも行くんだ。』 誰かに会いたい一心でした。 そう思った時、身体の自由が戻りました。私は急いで部屋を出ました。 向かって左側にある便所に駆け込んだ瞬間、更に恐怖が膨らみました。 便所の蛍光灯が点いてなかったのです。 真っ暗な便所の中は並んだ便器だけで人は無く、3つ在った個室からも人の気配が全くしませんでした。 何よりもそれ以前に便所の中は真っ暗なのです。 階段から向こうの廊下は便所しかなく行き止まりです。 便所以外に行くところがないのです。 確かにスリッパの足音は階段を上り下りすることなく、便所へ向かってました。  「これって、もしかして霊体験なのか?」 私自身、どちらかというと霊現象の様な超常現象は否定的な方でして、まして大事な取引のある出張中にそんな非現実な考えが入る余地などなかったのですが、程良く酔って眠りに就いていた私の目が覚める程の体験に、その時はじめてそう考えるに至りました。 次の日、三人で朝食を採りながら、  私 「昨日の夜中に誰かトイレに行かれました?」 答えはNOでした。  私 「じつは…、」 昨晩の出来事を話しました。  上司「夢だろ?(笑)」  私 「でも…、程良く酒が入ってて夜中に目覚めたことなんて、今まで一度も無かったんですけどね…。お陰で寝不足ですよ。」  上司「帰りの新幹線でゆっくり眠ればいいじゃん。」  私 「そうします。」 外に陽があると、私の中でも昨夜の出来事は夢か錯覚だったのかと感じる様になってました…が、最後に確信させて貰えました。 チェックアウトの時です。 フロントの小太り中年男の目が昨日にも増して笑ってました。 私には全てが解りました。この男は確信犯なのだと。 最初、私だけにあの部屋を指定してきたことや、寝不足気味の私の顔をみて昨日以上に笑っているその目は、きっとあの部屋には何かがあるのだと。 何かがあるにも拘わらず、私を宿泊させたのだ。臭いから察して、私が泊まるまで長らく利用されて無かったのだろう。 鍵を手渡す際に私はその手をしばらく離さず、その男を睨み付けました。 男の目は笑いながら正に 『見えました?どうです?何か見えたでしょう?』 と言わんばかりでした。  私 「お陰様で、よく眠れましたよ。」 私は皮肉混じりに声に出して答えました。男の暗黙の問いへの答えの筈なのに、男は戸惑うことなく私の答えを受け入れた様子でした。 そして私達はホテルを出ました。 話はこれで終わりです。 私が泊まる以前にあの部屋で何があったのかは知りません。真相は何も解らないままですし真相など何も無いのかも知れません。ただ私が十年経った今も忘れられない怖い思いをしたとあるホテルでの体験談でした。 当時は、怖い体験と共にあのフロントの男の行動に憤りを感じていて、あのホテルにはもう二度と泊まるものかと思ってました。 この文章を書いていて、今から思えばやっぱり錯覚だったのかという思いもあり、もう一度泊まって真相に迫ってみたいとも思いましたが、十年という歳月は少し長すぎた様です。今ではホテルの名前も部屋の番号も覚えておりません。 現場へ出向くことが出来れば薄らいだ記憶も戻って来るとは思うのですが、その後、会社を退職し別の職種で独立した私が栃木へ出向くことはまずないでしょう。 皆さんも、もし何人かでホテルを利用する際、あなただけが部屋の指定を受けたり、フロントでの対応に違和感を感じたならば、その夜は何かが起こるかも知れません。
41〜60へ戻るよ
トップに戻る